「ヒトには生まれつきの感情も行動もない」「すべては後天的に学習したものである」という発想がマズいのは、「えっちなものをすべて規制すれば男の性欲を無くせる」「暴力的なコンテンツをなくせば殺人事件を無くせる」といった誤った結論になってしまうこと。前提が間違っているから、答えも間違う。
たとえば女は全体的にほんのりと男が嫌いなのは、日常的にセクハラを多かれ少なかれ経験しているからという「だけ」が原因だと考えてしまう。これはよくない。なぜなら男側から「そんなの女が我慢すればいいだけじゃん」という反論を許してしまうからだ。性別を問わず、セクハラは許せるものではない。
男女を問わず、ヒトには「見知らぬ男に警戒心を抱く」という傾向がある。この生まれつきの傾向を認めれば、話は変わる。男は見知らぬ相手に対して警戒心を解く方法を考えなければならず、そのためには「女にセクハラを働くやつ」を撲滅しなければならない。セクハラマンが男女共通の敵になるのだ。
フィクションに人間の行動を変える力はあるか?私は「ある」と断言したい。進化心理学者ピンカーによれば、ヨーロッパでは15世紀半ばに活版印刷が発明されて以来、人口当たりの殺人件数が一貫して減少してきた。読書によって他人の痛みを理解できるようになったからではないかとピンカーは指摘している。ならば、性的なコンテンツや暴力的なコンテンツを規制すべきだと言えるだろうか?もちろん、言えない。科学的に効果が検証されていないからだ。性的なコンテンツを見せなければヒトの性欲を抑えられるのか。暴力的なコンテンツを見せなければヒトの暴力性を緩和できるのか。私は、まったくそうは思えない。
14世紀、自国にペストの脅威が迫っていることに気づいたイングランド国王は、大司教に泣きついた。祈祷によって病魔を退けようとしたのだ。要するに表現規制とは、お祈りだけで病気を治そうとするようなものである。手洗い・うがいも試していないのに。
表現規制は「武器軟膏」に似ている。これは近世ヨーロッパで存在した治療法で、武器による傷を「武器に軟膏を塗ることで直す」という方法だった。驚くべきことに、この治療法は当時の標準的な医療行為よりも効果があった。武器軟膏で傷を治そうとした兵士は、そうでない兵士よりも生存率が高かった。
武器軟膏では、傷口には何の治療行為もしない。それではなぜ効果があったかというと、当時の標準的な医療行為のほうが致命的だったからだ。動物のフンを混ぜた没薬を傷口にすり込んだりするのに比べれば、武器軟膏を使って(つまりは何もせずに)自然の治癒力に頼るほうが生存率は高かったのだ。
性的コンテンツや暴力的コンテンツを隠すことで、ヒトの性欲や暴力性が低くなるかもしれない。効果がほとんど検証されていないのだから、可能性はある。けれど、それは武器軟膏に頼るのと同じだ。もしかしたら、もっと効果的な「治療法」があるかもしれないのに、それを発見する道を閉ざしてしまう。
フィクションには、ヒトの行動を変える力がある。生きたまま腸を引きずり出すような残虐刑が廃止され、殺人発生率が低下したのは、読書の効果だとピンカーは言う。フィクションを上手く使いこなせば、私たちはよりよい社会を実現できる。それを切断処理するだけでは到達できない社会を創り出せる。
必要なことは2つ。「ヒトの心のメカニズムの解明」と「科学的な効果検証」である。人類は免疫のメカニズムが理解できたから、ワクチンを使いこなせるようになった。科学的な実験手法を覚えたから、新薬に効果があるのかどうかを検証できるようになった。同じことを、フィクションに対してやればいい。
生物学者ドブジャンスキーは「あらゆる生物学的知識は、進化の視点がなければ意味をなさない」と述べている。そしてヒトの脳と心も、生物学的な現象である。心理学は長い遠回りをして、ようやく進化論を取り入れるようになった。ヒトの心のメカニズムの解明は、やっと入り口に立ったところだ。
フィクションがヒトの心に与える影響は、まだほとんど分かっていない。けれど、「ただ隠せばいいというものではない」「それは武器軟膏と同じだ」と分かる程度には、ヒトの心についての理解は進んだ。私たちは最初の一歩を踏み出したところだ。この先の100年が楽しみである。
「ヒトには生まれつきの感情も行動もない」「すべては後天的に学習したものである」という人間観は、進化心理学者からは「標準的社会科学モデル」と名づけられて激しく批判されている。よりイメージしやすい「空白の石版(タブラ・ラサ)」仮説という呼び名もある。ヒトの心は白紙だという仮説だ。
「空白の石版」仮説は、端的に言って非科学的だ。客観的に観察できる事実とは一致しないからだ。ベテランの保育士なら誰でも、ヒトには生まれつきの個性があることを知っている。生まれたての赤ん坊でさえ、よく泣く子とそうでない子がいる。空白の石版は、研究室に閉じこもった学者の机上の空論だ。
ひよこは生まれて初めて見た動くものを親だと認識する。(実際にはもう少し複雑だが)この刷り込みにはタイムリミットがある。これは、ヒトの母国語習得によく似ている。ヒトは赤ん坊時代に周囲で話されていた言語を母国語として覚える。そして、これにはタイムリミットがある。言語はヒトの本能だ。
人文社会学を学んだ人は「ヒトに本能がある」と聞くだけで眉を顰める。なぜなら「本能」という言葉には、変更不可能で決定論的な響きがあるからだ。しかし、ヒトは本能的な行動を、文化によって変えることもできる。でなければ、満員電車で通勤することも、1日8時間を机の前で過ごすこともできない。
重要なのは、「空白の石版」仮説を捨てることだ。ヒトには本能があると認めたうえで、それを文化によって変えられるというヒトの驚異的な能力に目を向けることだ。生物学は本能までは解明できる。しかし文化を解明するのは、本来、人文社会学が得意とする分野であるはずだ。